自動(AUTO)について考える
自宅でも工場でもクルマの中でも巷には「AUTO」や「自動」があふれています。
蒸気機関が登場したころの「自動」は、「人が力を入れないでも自ら動き続ける」という「自動」機関で人パワーを大幅に強化しました。「人がいなくても自ら販売」する「自動」販売、株のソフトウエア高速自動売買もありますね。
ところで世界初の自動販売機は、古代エジプトの寺院に置かれた聖水の販売装置。5ドラクマ硬貨を投入すると硬貨の重みで栓が開き、蛇口から水が出た(Wikipedia)そうです。
最近はセンサーが発達しているので「人が判断しなくても自らうまく調整してくれる」ような「自動」調整も多い。さらに進んで「自ら判断して対処してくれる」「自動」運転。こうなればドライバーの恩恵は大きいですね。
もっと先はどうなるんだろう。人が何一つ考えなくても「人が“やるべきこと”を自らやってくれる」おせっかいな「自動」が登場するかもしれません。
しかし、”やるべきこと”はやれないとこばかりじゃない。やるべきことと重々わかってはいてもやりたくない事だってある。「やってやる」と言われてもやってほしくもない事だってあるでしょ。選択は人生そのものよ。
「自動」は「自分が動く」ではなくて「自分じゃないモノが自ら動く」という意味。そんなものをあてにせんと、自ら活き活き“動く”「活動」で自ら“生きる”が活き活きする「生活」にせにゃいかんと・・・自動の恩恵に浴しながらも思うわけです。